アルゼンチン共和国との交流 3

80年後の1933年(昭和8年)になってペリーの孫のジェイムス・D・W・ペリー氏が来日するのを機に,「ペリー来日当時の関係者の子孫を探している」という記事が報知新聞に掲載された。これを知った野本作次郎の孫の作兵衛氏は自ら名乗り出てペリーの孫のジェイムス・ペリー氏と会い,家伝の日本刀を贈った。この会見記事を読んだ当時のアルゼンチン公使アルツゥーロ・モンテネグロ氏が作兵衛氏に手紙を書き,80年前の祖父同士の友好が明らかになった。
 これが契機となって,1934年にモンテネグロ氏が境町を訪れた。野本作次郎,作兵衛氏の生地である茨城県境町とアルゼンチン公使館との交流が始まったのである。長田小学校には毎年モンテネグロ賞(奨学金)が贈られ,モンテネグロ氏転任まで7年間続いた。

そのときに様子より・・・(野本氏の記録より)

(昭和10年)モンテネグロ公使が野本家と長田小学校を訪問することとなった。地元は大騒ぎとなり、私がリーダーをしていた青年団は自動車でやってくる公使のために、道路に砂利をまいて車一台が通れる道を作った。なにしろ当時、村には電話も無く、自動車も一台あるだけだった。(竹之内 久校長の時)
 2月19日、沿道を人が埋め尽くす中、公使がやってきた。子どもたちは晴れ着を着て、万歳の歓声をあげながら、初めて見る外国人を歓迎した。小学校で行われた学芸会を鑑賞した公使は多額の奨学金を贈る約束をされた。
 奨学金は、「モンテネグロ賞」として、優秀な成績を収めた卒業生5人に計百円が贈られることとになり、公使が離任された1941年までの7年間続いた。その間にも、公使は当時まだ珍しかったラジオ、カメラなどの工業製品や貝の標本、茶箱いっぱいのひな人形などを贈る傍ら、青年団のためにかわらぶき、約20坪の青年館を六百円の費用を使って建ててくださった。(青年館は長い間モンテネグロ会館として建っていたが、境町が昨年度、隈研吾氏設計のもとモンテネグロ会館としてリニューアルされた。)